成就した恋愛に商品価値はないのか?

…というようなことについて、最近ずっと考えてたのでちょっと文にしてみる。

 

多様化した価値観を受け入れて進む現代において、物語のありようも変化してきたなーと思う。旧世代的な価値観を押し付けてくるような物語は拒否され、みんな違うことを当たり前とするような空気の流れる物語が好まれるようになってきている。

その中で、物語の中の恋愛の取り扱いも、少しずつ変容している。

かつて、物語の中での恋愛(あるいは、恋愛を主軸にした物語)は、成就イコール終焉だった。シンデレラの苦しい日々は終わり、王子様と結婚して幸せになりました。めでたしめでたし。恋愛の成就によって物語は終わりを告げるものだった。

主人公が苦しい時期には、ドラマが数多く展開される。起承転結の中で、好きな人と結ばれることは間違いなく「結」であり、「結」でしかなかった。恋愛もののマンガや小説やドラマやゲームの、一番面白いところは片恋の苦しさであり、ライバルの登場であり、思いが実りそうで実らないもどかしさである。……と、長年わたしも思ってきた。

恋愛マンガを読んでいると、意中の人に主人公が告白をしようとする(≒恋愛が成就しそうになる)と、なんだかんだと邪魔が入り、なかなか想いを伝えることができない…という展開をよく見ることがある。

そうやって告白を引き延ばすのはどうしてか? もちろん、告白が成功すると、起承転結の「結」が来て物語が終わってしまうからだ。主人公の恋愛の成就は、イコール物語の終わりだからだ。

或いは、主人公の恋が実り意中の人とカップルになった途端に、もう描くべきドラマがなくなり、主人公の友人の恋愛話にシフトする…という展開もよく見る(少年マンガより、少女マンガに多い気がする)。なんならそのまま、主人公の友人、主人公と意中の人を競った元ライバル、意中の人の親友…なども絡めて、それぞれの困難を乗り越えながらそれぞれに恋愛を成就させていくこともある。

でもぶっちゃけ、一番面白かったのは主人公と意中の人の恋愛だ。読者はその二人がくっつくかどうかに一番興味があったわけだし、主人公に一番感情移入していたのだから。けれど、その二人の恋愛劇は「ゴールしたもの」と見なされ、一旦脇に置いて、別の人の別の恋愛劇を、ハラハラドキドキ描いていく。

 

何が言いたいかというとつまり、それらの作品では恋愛の成就はゴールであったのだ。

そして、物語における恋愛とはそういうものだと、わたしも思って生きてきたのだ。

けれど最近、そうではなくなってきた。成就した恋愛の続きを描く物語が増えてきているのだ。

 

もともとわたしたちは、成就した恋愛の続きが知りたかった。あの二人が結ばれたあと、どんな風に暮らしているのか。どんな場所にデートに行き、二人でどんなものを食べるのか。二人でどんな部屋に住み、どんな話をするのか。どんなことでケンカをし、どんな風に仲直りするのか……それを見たいと思っていた。

その「見たい」を叶えてくれる二次創作を愛した。めでたしめでたしの後、幸せに暮らす二人の物語の続きがいくらでも見たかった。二次創作はそういった作品で溢れていた。

成就した恋愛にも、商品価値はあるのだ。そのことをわたしたちは知っていた。けれど、物語を作る側の人たちに、その需要はなかなか伝わらなかったように思う。

 

きのう何食べた?』はドラマ化される前から人気マンガだったけれど、ドラマになった途端、センセーショナルなヒット作として受け入れられた。

あんなにごく普通の、当たり前の日常を描いた作品のどこがセンセーショナルだったのかというと、主人公のゲイカップルが最初からカップルとして成立しており、作中ほとんど二人の関係が揺らぐことのないまま、当たり前に続いている日常を描いているところだと思う。

彼らの恋愛は物語の始まる前から成就していて、物語の主軸ではない。ゲイが主人公というだけで、ドラマという媒体ではセンセーショナルであるにもかかわらず、だ。

けれど普段マンガに親しむわたしは、『きのう何食べた?』を特にセンセーショナルな作品とは思っていなかった。なぜかというと、わたしは二次創作を読むからだ。そして、よしながふみ先生は二次創作の同人誌から出発した作家さんであることを知っていたからだ。

二次創作には多くある、成就した恋愛のその後の物語。それを一次創作に置き換えると、こんなにもセンセーショナルな作品になるのだ、と見通せたよしなが先生のご慧眼はさすがだと思う。

当たり前の日常は、それだけで十分な娯楽である。かわいい登場人物の当たり前の日常を、わたしたちはただ愛でていたい。オタク文化の中に、そうした作品は数多く存在する。女性向けでも、男性向けでも。

戦いも恋愛のいざこざもない、ただ流れる穏やかな日常の物語は、わたしたちに癒しをくれる。もちろん戦いの物語も恋愛の物語も必要だけれど、「平和な日常」だって立派なエンターテインメントなのである。

 

『あせとせっけん』というマンガでは、主人公の女性会社員が一話冒頭で出会った男性会社員と、一話の中でもう恋愛関係になる。そこから始まる物語では、恋人になった二人が少しずつ関係を深めていく様子が描かれる。社内恋愛ならではのドキドキや、休日デートの様子や、それぞれの家族に初対面する緊張や、同棲に至るまでのやりとりや……。

その二人の様子をわたしたちは、ニヤニヤしながら眺める。恋敵が現れて二人の仲をひっかき回したり、二人のどちらかが浮気しそうになったり、みたいなハプニングは訪れない。平和な日常を描くだけで読者は、十分に楽しめるのだと教えてくれる。

ちなみにこちらも『何食べ』と同じ週刊モーニング連載だ。モーニング編集のご慧眼もさすが、である。

 

成就したカップルの片方をすげ替えてシリーズを続投するドラマがいろんな意味で話題になったけれど、きっと「成就した恋愛には商品価値がない」と作り手側が思っているから、人気作を継続するためにはそうするしかないと考えて起きたことなのかな?と思った。

作品の在り方は、いろんな形があっていい。恋愛が成就するまでを、ドキドキしながら見られるような作品も変わらず存在していてほしい。けれど、成就した恋を引き裂いてまで、物語を無理矢理こじつけようとしなくたって、ただ普通につきあってるだけの二人の物語にもけっこうな数の需要があり、そしてそういう物語は既に生まれヒットしているのだよ、ということを作り手側にもっと知られたらいいなと思う。

作り手の都合でカップルを引き裂くようなことは、もうしなくていいのだ。