『ドライブ・マイ・カー』の感想

村上春樹の小説が好きだけど、映像化にはあまり向かない(どちらかといえば実写よりはファンタジー色の強い作品をアニメ化した方がまだしもいいのではないか)と長年思っていたのだけれども、この映画は最高に楽しめた。原作をさらに高みへと昇華した「理想的な村上作品」ですらあった。
村上春樹小説の核となる部分を丁寧に洗い出し、現代を生きる誰もが受け取りやすいように細部をアレンジして、言葉ではなく映像で伝える。わたしが愛した小説たちと同じ空気、同じ世界観が、そこにあった。監督が深く村上作品を理解し、解釈していることが伝わった。原作者ファンの一人として、とても嬉しかった。
 
村上作品特有の台詞回しは、そのまま喋ればいかにも「小説原作」らしく悪目立ちする。これまでに観たことのある映像化作品では、役者の台詞がどうも芝居がかって聞こえ、その違和感のせいで映画の世界に入り込めなかった。今作でも冒頭の、音の台詞などは現実感に乏しく、ともすれば朗読のように聞こえてしまう。でもそれが不思議と、音をミステリアスで実在感の乏しい女性に見せる効果を生んでいた。芝居がかった台詞回しを、逆手にとる形だ。
音の退場後は、台詞が朗読のようだと感じる場面はほとんどなかったと思う。原作にある印象的な言葉たちが、登場人物がその場で口にするのに相応しい自然な台詞になっていた。
言葉が悪目立ちせず、浮いて聞こえなかったのは、演者たちがその人物とその言葉の意図と背景を正確に掴み捉え、台詞に振り回されていないからだと思う。(もちろん、脚本作りの過程で慎重な取捨選択があったであろうことは、想像に難くない)
特に印象的だったのは、高槻役の岡田将生くんの長回しの場面。かつての音が語った物語の続きが彼の口から語られるシーンには、息をするのも忘れるほど引き込まれた。余計なカット挿入はなく、ひたすら語り手である高槻と聞き手である家福の表情のみが映され続けていたことも、語りに集中できるよう取り計らわれていた。
反面、今作は原作の描写や言葉に、過剰に頼ることはしない。印象的な言葉や教訓は、劇中劇であるチェーホフの『ワーニャおじさん』になぞらえて語られ、受け側が人物の心情を理解しようと努力を傾けなくとも、自然に理解が促されるようになっている。
『女のいない男たち』は一度読んだきりなので正直言って全編うろ覚えだったのだけれど(映画を観た後に読み返して、覚えてるのとはまったく別の話で驚いたほどだ)その中でも「あなたは正しく傷つくべきだったのです」という言葉は、とても印象的だった。大切なこの言葉を、主人公(家福)が(原作のように)誰かから言われるのではなく、自ら気づき口にできたところが、個人的にはとても良かった。
 
長い映画だがすべての場面は必要なもので、印象的な見せ方によって登場人物の心情がはっきりと理解できる。「例の場面」をフラッシュバックさせる陳腐な演出などなくとも、高槻の背中を目にするたびに家福が何を思い出しているかは、手に取るように分かる。チェーホフの脚本によって家福の中の「正しく傷ついていない」自分が暴き出され、そこから彼が逃げ回っていることが、よく理解できる。理解できることで、観ているわたしは家福に共感を覚え、親しみを抱くことができる。
いつ訪れるのかと思っていた「家福が車の助手席に座る」場面が、もったいぶらずに必要なタイミングでさらっと描かれる。高槻が残していった重い言葉たちから、車の天窓を開けることで一時的に解放されたかのようなカタルシス。それらの場面には、必要最低限の台詞だけがあり、不要なモノローグなどは挿入されない。その信頼が、とても心地好い。キーアイテムである「煙草」の使われ方も、どの場面もとても効果的で印象的で、美しかった。
 
村上春樹の小説は、(セカイ系の原点ともよく評されるけれど)自分という「個」を世界の中心に見立てるような、とても個人的な作品だと、わたしは捉えている。
井戸の底を自分の心になぞらえ、奥深くまで降りていき、主人公はそこで自分自身と向き合う。今作でいう「井戸の底」とは「旅」であり、導き手の女性は「僕」の愛車を深く理解し操るドライバーであり、また一方では、もう一人の「僕」で、主人公だ。
この映画が村上作品をある種より高いところへ昇華しているように感じたのは、過去と向き合うことで導き手である彼女の「個」にも深く入り込んでいく点で、そこが原作以上に現代的な作品になっていると感じた。原作者のファンとして、それがとても嬉しかった。(大事なことだから、二回言いました)