映画『映画大好きポンポさん』の感想

とても親切で分かりやすい映画だった。かといって子ども向けという訳でもないので、ちょうど今話題になっている「時代が求めている分かりやすさ」のお手本のような映画だなと思った。というと何か感じ悪い言い方になるけど、誰が見てもちゃんと分かるというのは間違いなく大事な要素である、いつの時代でも。
ジーンくんだけが特出して身を削っているが、他のメンバーは基本的に常識の範囲内で仕事をしており(大事なプレゼンの前に残業することはあっても)、「産みの苦しみ」はあっても視聴ストレスは少なく、人物に共感しやすかった。
登場人物がみんないいやつばかりで、素人監督のジーンくんや新人女優なのに主演の座を与えられたナタリーちゃんに嫌味を言ったりいやがらせをしてくるような小物モブがいなくて、ベテラン製作陣は人間としても器が大きく素直に尊敬できる人たちで、最後までみんななかよしで観ていて嫌な気分になる場面がなかった。

周りの人間に嫌な奴がいなくて、みんな協力的な現場でも、やっぱり最後は一人で産みの苦しみを味わなくてはいけないというところが良かった。
撮影が終わるところまではあまりにもストレスがなさすぎて「うまく行き過ぎている」と少し思うことがあった。
監督も主演女優も素人同然なのにこんなにうまくいっていいのか?ジーンくんが憧れによって脳内でカメラを回し続けていたとしても、実質初めてフィルムを撮るのにこんなに何もかもちゃんとしているものだろうか?それだとジーンくんが「天才」になりすぎないか?天才が天才によって見出されその能力に見合った成功を収めるという、ただそれだけの物語にわたしは感情移入できるか?
楽しく観ている最中、クランクアップパーティーのシーンで、そんな不安がふと頭をよぎった。

でもそのあとに続く「さあ、楽しい楽しい編集の時間だ」から、無間地獄がちゃんと始まる。
ジーンくんはその前のシーンで短いプロモーション用の映像をばっちり完成させており、編集に関してはそれなりに自信をもっている(わたしたちも彼の実力に信頼を置いている)。そのジーンくんが、自分自身で回してきたフィルムを切り捨てることに苦悩する場面がとてもいい。
ここでジーンくんがぶち当たるのは、映画は誰の為にあるのかという命題だ。

物語の序盤に、ジーンくんはベテラン監督から「不特定多数の観客に向けるのではなく、一人の観客にフォーカスして映画を撮ると良い」というアドバイスを受ける。このカットで、明確にその「一人の観客」とは誰あろうポンポさんであると明示される。話を聞きながらジーンくんの目がポンポさんに焦点を合わせたことが我々にもはっきりと伝わる。だから、わたしたちはこの『マイスター』という映画をジーンくんはポンポさんに見せるために撮っているのだと思いながら映画製作を見守ってきたわけだが、編集の段階まできてジーンくんは「誰のために作るのか」というクリエイターの壁にぶちあたる。
この映画を誰に見せたいかで言えば「ポンポさんに見せたい」だけど、じゃあ「ポンポさんのために作るのか?」となるとそれは違う。そこでジーンくんは苦悩する。そうして、決断する。「これは僕だ」「僕のための映画だ」と思い込むことを。
クリエイターにエゴは必要であるというが、結局のところ「ポンポさんに見せるため」にカメラを回したとしても、その作品はポンポさんという「他人」のものではなく、やっぱり作り手である「ジーンくんによる、ジーンくんのための物語」でなくてはならないのだ。クリエイターには、その思い込みが必要なのだ。そうでなくては、ポンポさんをはじめとする「他人」の胸を打つだけの説得力は持てない。だから、ジーンくんは切る。楽しかった撮影の思い出も。憧れのスターたちの名演も。現場で痺れた数々の場面、ヒロインの登場シーンさえ。

この映画のタイトルは『映画大好きポンポさん』だけれど、実際ポンポさんは本当に「映画大好き」なのだろうか?
ポンポさんは、偉大な映画プロデューサーである祖父から莫大なコネクションと共に映画作りに必要な才能を受け継いでいる。すぐれた才能を見出す審美眼を持ち、適材を適所に配置する能力がある。ポンポさんは映画に愛されている人なのだろう。……では、ポンポさんは映画が本当に「大好き」なのか?
ポンポさんは幼少の頃に祖父からほぼ強制的に大量の映画を見せられた。幼い頃の自分にとって、2時間3時間もの間画面を注視し続けるのは苦痛だったとポンポさんは語る。だから長い映画は「嫌い」だと。
そんなポンポさんは、その稀有な才能にも関わらず今ではB級映画ばかりを作っている。B級といってもすぐれた作品なのには違いないが、ニャカデミー賞を獲るような大作というよりは頭を使わずに見れるようなおバカ映画を好んでいるようだ。それは、ポンポさんが本心からB級映画が大好きだからなのか?――否、彼女は言う。「映画って極論ヒロインをかわいく見せられればいい」と。
映画にはいろんな作品があって、歴史スペクタクルや壮大なファンタジーも、頭からっぽで見れるコメディものもすべて映画だ。だからポンポさんがチョイスするのが前者でなく後者であろうとも、映画好きであることに変わりはない。にしても、何時間でも映画を見続けていたいギークであるジーンくんより、ポンポさんの方が映画への熱量が低いことは疑いようがない。タイトルに偽りあり、である。作品に合ったタイトルにするのであれば「映画大好きジーンくん」とつけるべきだ。
でも、この映画…というかこの作品は、『映画大好きポンポさん』なのである。ポンポさんが自分の口から映画(という文化)を大好きであると明言する場面がないにも関わらず、だ。

ポンポさんは、幼い頃から祖父に付き合わされて望むと望まざるとに関わらず映画を見てきた人だ。その英才教育によって培われた類い稀な才能から、ポンポさんは望むと望まざるとに関わらず映画作りの才ある人が見抜けるし、一度見出したが最後、彼らがその才を遺憾なく発揮できる場を設けないと気が済まなくなってしまう人だ。だから、女優の原石に眠っている光を見出したが最後、彼女のための脚本を書きあげてしまう。
でも、ポンポさん自身が満足する映画を自分で作ることはできない。彼女が普段作るのはB級映画ばかりで、なぜかというと彼女には「自分が満足する(大好きになれる)映画を自分では作れない」という諦念があるからだ。
そこで映画が大好きなジーンくんは、「この自分の好きな映画を自分では撮れない少女のために、彼女が大好きになれるような映画を僕が撮ろう」と決意する。一人の観客にフォーカスして作るなら、その一人をポンポさんと定めた訳だ。
スイスでの撮影中、ジーンくんは良いシーンが撮れるとビビビと痺れながら良さを実感した後に、ポンポさんを振り返って(今の良かったですよね!)(これならポンポさんも喜んでくれますよね?)と確認している。ポンポさんはジーンくんの頑張りに応えるよう、あるいは背中を押すように「この映画、間違いなくニャカデミー賞獲っちゃうぜ」とほくそ笑む。
しかしポンポさんは、「間違いなく名作になる」「かならず評価される」とは言うものの、「好きだ」とは言わない。ポンポさんがこの作品を「大好きだ」と言うのは、ジーンくんがエゴに振り切ってみんなで撮影した良いシーンをぶった切り、ポンポさんが書いた脚本に上乗せした後だ。
ジーンくんが『マイスター』を「僕の作品だ」「ここに描かれているのは僕自身だ」と強く思えた瞬間から、『マイスター』はポンポさんの手を離れ、ジーンくんの作品になり、それによってようやくポンポさんは「好きなものを作れた」ことになった。自分が携わった作品を「大好きな映画」と賛辞することができる幸せを、ようやくポンポさんは得ることができたのである。

『映画大好きポンポさん』というタイトルと、実際作中に描かれているポンポさんとの乖離が気になっていたのだけれど、つまりこの映画は「映画の世界に生きるポンポさんが、自分が本当に大好きな映画を手に入れるまでのストーリー」なのだと思う。
この映画の主人公はジーンくんだけれど、主題はポンポさんなのだ。
好きなことを仕事にし、自分の作るものに誇りをもって生きることの幸せ、仕事人たちの孤独と連帯、最終的にはものづくりがいかに幸せなことか、が描かれていて、そういう主題の作品はだいたい気持ちがいいものだけれど、この映画はことさらに映画に対する愛が詰まっていて、いきいきしたキャラクターたちの表情の向こうに、この『映画大好きポンポさん』を作った人たちのものづくりにかける想いを見ることができたのが、なにより気持ち良かった。
よい映画をありがとうございました。