またギリギリ更新になった

一日一更新、五十七日目。

毎日、何を日記に書こうかとネタ探しに汲々としているが、こんなことをしていて果たして小説を書く助けになるのだろうか?と、思わないでもない。文章を書く習慣付けにはなっているものの。

今日は近所(というほど近所ではない)をウロウロ散歩して一日過ごした。家に帰ってみたら、だいたい2万歩くらい歩いていた。途中、カフェに入ったりして休憩したので(最初の一文は、そのカフェで書きました)、歩いている実時間自体はそれほど長くはないものの、それなりに疲れて良い運動になった。

わたしは散歩が好きである。自転車に乗るのも好きだが、恐らく歩くことの方が好きだ。歩きながら街並みを眺めたり、考え事をしたり、音楽やラジオ(ポッドキャスト)を聴いたりする時間が好きだ。前にも同じことを書いたかもしれないが。

アナログゲームを作っているうちの夫は、家やカフェなどでじっと座って考え、メモをとりながらとにかく思考してゲームを作っていく人であるが、わたしはそういうスタイルで物語を考えるのはあまり得意ではない。全然別のことを考えてしまったり、眠くなったりしてしまう。なにせ集中力がないのである。その点、うちの夫の集中力はすごいなと思う。

わたしは、歩いたり身体を動かしているときの方が、より集中して思考できるタイプである。なので、文章を書いている途中で行き詰まると、一旦中断してお風呂に入ったり散歩に出かけたりする。そうして、全然別のことを考えたり音楽を聴いたりしながら、考えるでもなくぼんやりする。そうしているうち、ふと「あ、こうしたらいいんだ」みたいな感じで思いつくことが多い。

以前、ジャイ二次のユザキ(湯沢と赤崎)本の設定を思いついた時のことがなんだか印象的だったのでよく覚えているのだが、仕事から帰って夕飯を作りながら、本当に全然ユザキのことを考えていたわけではないのにふと、「湯沢は江戸川区の出身で、実家から自転車で練習場に通ってるんだ」と思いつき、そこからユザキ書こう!と思えたのであった。あのときなぜ急に湯沢の二次創作設定が突然降ってきたのか全然分からない。全然ユザキのこと、湯沢のことを考えていたわけではなかったのだが、それまでも何度か湯沢と赤崎が幼馴染の設定という二次創作を読んだことがあって、その印象が残っていたのかもしれない。それに加えてわたしは一時期江戸川区に住んでいたことがあり、その景色が何かフワー…ときて突然湯沢のイメージと繋がったような気がする。

なんだか分からないが、その「湯沢は江戸川区出身」という設定を思いついたとき、めちゃくちゃ嬉しかったのを覚えている。二次創作なのでもちろん自分が生み出したキャラでは全然ないのだけれども、それでもピタッとピースがハマる感触があった。自分が湯沢に感情移入して、湯沢のお話を書いていけると思えた嬉しさがあった。

もしこれが創作の喜びだとしたら、自分の生み出したキャラの「お前、そうだったのか!」みたいな設定に「気づけた」ときは、もっとずっと嬉しいものなのかもしれない。

ツジ先生の生み出したキャラを勝手に拝借している身分でこんなことを感じるのは烏滸がましいのかもしれないが、それでも、知った気になっているけど全然何も知らない人の「自分だけの勝手な、でも自分にとっては大事な背景」を思いつけたときの晴れがましさを、わたしは忘れないだろうと思う。

こう書くと、二次創作って本当に罪作りな行いですよね。作者でもないくせにね。でも、それを分かった上でやっぱり好きだ!という気持ちを表す手段として、かけがえがないなあと思う。

こんなことを書いているが、まだ12月になんの本を出そうか決められていない。大丈夫か?