推し言葉の底辺活

一日一更新、十一日目。

昨日は取り乱して大変失礼を致しました。今もなお若干取り乱しておりますけれどもね。だって、ねえ。もう10年以上推してきた推しが…おっと、これ以上は昨日の日記をご覧くださいませね。この話始めるとまた昨日と同じことになりますのでね。

推しって便利な言葉ですよね。推しという言葉ができる前は、「嫁」とか言ってましたよね。長門俺の嫁みたいなね。別に娶るつもりはなくても「嫁」と呼ぶことによって、自分の最愛の存在、というニュアンスを出していたわけですよね。わたしも推しとの結婚願望はゼロですが「嫁」と言っておりましたね。なんせ夢属性がないものですから。

「嫁」も言葉としてよく遣われてましたが嫁と推しでは推しの方が少し軽い印象を受けます。だって嫁って普通、言葉通りの意味に捉えると一人しかいませんもんね。作品別に何人も嫁がいるんじゃおかしいもんな。でもおかしいけど、普通にみんな作品別に嫁がいたような気はしますね。じゃあ嫁と推しはそんなに変わらないか…

でもそうはいっても、推しって言葉ができたのはすごく有難いなと思ったものですよね。夢女じゃないのに「嫁」って言ってると紛らわしいですものね。でも夢属性の有無は、推しという言葉だけでは測れないところがあるから、今も昔も結局言葉が変わっただけでその言葉を発している人の想いの方向性や強さみたいなものが分かるわけではないですね。

「最推し」とかいう言葉もあったりしますが、推しの中でも最強ということなんでしょうか。でも最推しって、「〇〇(作品名・グループ名)の中では××が最推し」みたいな遣い方ですよね。「わたしの人生において数々の推しに出会ってきたが、中でも××が一番の推し、最推しである」みたいなことではなくて、「基本〇〇は箱推しだけど、敢えて一番を決めるなら××」ってことですよね。〇〇は全員推せる!でも一番は××!っていうね。

このへんオタクの繊細な(繊細でもないか)心理として、まず自分は〇〇のファンであることが前提だ、ってことが言いたいんですよね。××個人が好きで他はどうでもいいのではなく、〇〇は全員が好き、〇〇の醸す世界が、雰囲気が好きで、その中にいる××が好き。っていうこと。だから最推しって言い方をするのである。〇〇では××が推し、ではなく〇〇では(みんな推せるけど中でも)××が最推し。いや改めて考えるとなんかすごく日本らしい言葉ですね。

 

あと嫁以外にだと「××萌え」とか言ってましたね。でも××萌えは、キャラ個人より属性などに遣われていたかも。「年上萌え」とか「半獣萌え」とか。なにげに今もそれは遣うかも。ほかの言い回しが思いつかないともいう。

萌え、というのは意味合いも含めてとてもよくできた言い回しなので死語になってほしくなかったなあ。でもあの遣われ方だともう死語になるしかない感じではあった。

むしろ「萌え」は廃れて、その反対語である「萎え」だけは残る、というのはちょっと寂しい傾向ではありますね。萎えも死語かもしれないが。萌えと萎えって対語としてとても優れていたよな。自分の萌えは他人の萎え、って言い回しもいいし後世に残すべき諺だったかもしれない。もったいない。

推し、という言葉も便利なので死語にはならないでほしいですね。しかしまあこの言葉もかなり雑に遣われているから、将来的には分からないな。「推し活」とか、もう「~活」って言い出したら死語に片足突っ込んでる感がありますけどね。なんだよ、推し活って。よく考えてみたら変すぎるだろこの言葉。揶揄でしかない。そもそも自分がしている活動を「活」とか雑に言われたくなさすぎる。「ヌン活」とか、アフタヌーンティーのリッチ感を底辺まで貶める用語だよな。誰が考えたんだろ…(だいぶ面白いけど)

そういえば推しという言葉が生まれる以前からヅカファンの方たちは「御贔屓(ごひいき)様」と呼んでいたそうですね。様というあたりがさすがヅカファンという感じがします。これも良い言葉ですが、だからといってヅカファン以外の人たちが軽率にこの言葉を「推し」の代わりに使用し始めたらヅカファンならずとも嫌な気がします。

やはり推しという言葉は廃れず今後も残っていってほしいですね。それではまた。