『ドライブ・マイ・カー』の感想

村上春樹の小説が好きだけど、映像化にはあまり向かない(どちらかといえば実写よりはファンタジー色の強い作品をアニメ化した方がまだしもいいのではないか)と長年思っていたのだけれども、この映画は最高に楽しめた。原作をさらに高みへと昇華した「理想的な村上作品」ですらあった。
村上春樹小説の核となる部分を丁寧に洗い出し、現代を生きる誰もが受け取りやすいように細部をアレンジして、言葉ではなく映像で伝える。わたしが愛した小説たちと同じ空気、同じ世界観が、そこにあった。監督が深く村上作品を理解し、解釈していることが伝わった。原作者ファンの一人として、とても嬉しかった。
 
村上作品特有の台詞回しは、そのまま喋ればいかにも「小説原作」らしく悪目立ちする。これまでに観たことのある映像化作品では、役者の台詞がどうも芝居がかって聞こえ、その違和感のせいで映画の世界に入り込めなかった。今作でも冒頭の、音の台詞などは現実感に乏しく、ともすれば朗読のように聞こえてしまう。でもそれが不思議と、音をミステリアスで実在感の乏しい女性に見せる効果を生んでいた。芝居がかった台詞回しを、逆手にとる形だ。
音の退場後は、台詞が朗読のようだと感じる場面はほとんどなかったと思う。原作にある印象的な言葉たちが、登場人物がその場で口にするのに相応しい自然な台詞になっていた。
言葉が悪目立ちせず、浮いて聞こえなかったのは、演者たちがその人物とその言葉の意図と背景を正確に掴み捉え、台詞に振り回されていないからだと思う。(もちろん、脚本作りの過程で慎重な取捨選択があったであろうことは、想像に難くない)
特に印象的だったのは、高槻役の岡田将生くんの長回しの場面。かつての音が語った物語の続きが彼の口から語られるシーンには、息をするのも忘れるほど引き込まれた。余計なカット挿入はなく、ひたすら語り手である高槻と聞き手である家福の表情のみが映され続けていたことも、語りに集中できるよう取り計らわれていた。
反面、今作は原作の描写や言葉に、過剰に頼ることはしない。印象的な言葉や教訓は、劇中劇であるチェーホフの『ワーニャおじさん』になぞらえて語られ、受け側が人物の心情を理解しようと努力を傾けなくとも、自然に理解が促されるようになっている。
『女のいない男たち』は一度読んだきりなので正直言って全編うろ覚えだったのだけれど(映画を観た後に読み返して、覚えてるのとはまったく別の話で驚いたほどだ)その中でも「あなたは正しく傷つくべきだったのです」という言葉は、とても印象的だった。大切なこの言葉を、主人公(家福)が(原作のように)誰かから言われるのではなく、自ら気づき口にできたところが、個人的にはとても良かった。
 
長い映画だがすべての場面は必要なもので、印象的な見せ方によって登場人物の心情がはっきりと理解できる。「例の場面」をフラッシュバックさせる陳腐な演出などなくとも、高槻の背中を目にするたびに家福が何を思い出しているかは、手に取るように分かる。チェーホフの脚本によって家福の中の「正しく傷ついていない」自分が暴き出され、そこから彼が逃げ回っていることが、よく理解できる。理解できることで、観ているわたしは家福に共感を覚え、親しみを抱くことができる。
いつ訪れるのかと思っていた「家福が車の助手席に座る」場面が、もったいぶらずに必要なタイミングでさらっと描かれる。高槻が残していった重い言葉たちから、車の天窓を開けることで一時的に解放されたかのようなカタルシス。それらの場面には、必要最低限の台詞だけがあり、不要なモノローグなどは挿入されない。その信頼が、とても心地好い。キーアイテムである「煙草」の使われ方も、どの場面もとても効果的で印象的で、美しかった。
 
村上春樹の小説は、(セカイ系の原点ともよく評されるけれど)自分という「個」を世界の中心に見立てるような、とても個人的な作品だと、わたしは捉えている。
井戸の底を自分の心になぞらえ、奥深くまで降りていき、主人公はそこで自分自身と向き合う。今作でいう「井戸の底」とは「旅」であり、導き手の女性は「僕」の愛車を深く理解し操るドライバーであり、また一方では、もう一人の「僕」で、主人公だ。
この映画が村上作品をある種より高いところへ昇華しているように感じたのは、過去と向き合うことで導き手である彼女の「個」にも深く入り込んでいく点で、そこが原作以上に現代的な作品になっていると感じた。原作者のファンとして、それがとても嬉しかった。(大事なことだから、二回言いました)

劇場版『きのう何食べた?』

めっちゃ泣きました Twitterに書いたけどだいたい15分おきくらいに泣いてた

まず最初のオープニング曲で泣いた 元々ドラマでも印象的なオープニングだったけど、仲良く京都旅行を楽しむ二人の笑顔が本当に愛しくて…

その前の話もあっただけに、ちゃんと京都デート楽しめて良かったねケンジ…と、あんなにゲイバレ嫌がってたシロさんが旅先でケンジと顔を近づけて笑い合ってる…というエモみでたまらず、また優しく素朴なメロディーに二人のささやかな旅行のメモリーが乗っかって、愛しくて切なくて、もう…(一泣き)

シロさんの実家にご挨拶に行ったあと、「好きな人のご両親に会えるなんて夢みたい」と言って泣いてしまったケンジが、もう会いたくないって言われちゃうのつらい…

けど、ケンジも分かってるんだよね シロさんのご両親の考え方も生きてきた時代を考えたら仕方ないことで、ご両親もシロさんのことを愛しているからこそ、そうなってしまったってことを… 

彼らは彼らなりにシロさんのことを(ないし、シロさんと共にいるケンジのこともたぶん)考えた結果なのが、つらいけどそれしかないよなって感じで… でもきっぱりと正月帰らないって言いつつ、肉団子の作り方を教わりに行ったり、まめに実家帰ろうって思えるシロさんが、偉すぎるな…って自分の身に置き換えてみて本当に思いました 大事にしてあげてねって言えるケンジも、シロさんも、どっちも偉い 見習いたいですね…

わたしは原作にあるシロさんのご両親の「お隣の家の子どもを孫の代わりに可愛がることにしたんだな」というあのエピソードが、少し救われたような気持ちになりつつも若干モヤつく絶妙な具合の落としどころで、流石はよしなが先生だなあと思っていたんですが、そのエピソードは挟まれませんでしたね この後、ドラマで続編をやったら出てくるのかな?(やってほしい)

『何食べ』はちゃんと登場人物に背景があって、ワガママ放題でせっかく料理教えに来てくれた佳代子さんにも嫌味を言ってみせるワタルくんにも、そうせざるを得ない彼なりの事情を感じさせるというか…

彼はたしか、父親が社長で英才教育を受けさせられていたんだけど、それが嫌で家を飛び出したっていう子でしたよね だから彼は「家に縛られるなんてバッカみたい」と言うしかない 安定が嫌でギリギリでもいいから自分で選んだ生き方をしたい、その決意と危うさが、彼の魅力でもあるんだよなって…

ケンシロの安定感に比べると大ちゃんとジルベールはまだまだ若くて危なっかしいカップルに見えるけど、その二人にも歴史があって、衝突を繰り返してちょうどいいところを探っていってて、なんか… 恋愛や夫婦や日常、の形に正解はなくて、それぞれにそれぞれの天国と地獄があって、それでいい、同じじゃなくていい、というメッセージを感じました わたしは

泣いちゃったところはいっぱいあったんだけど、やっぱりシロさんは本当にケンジが好きなんだなあって思うたびに泣けたな… これは私見ですけど、シロさんにとってケンジはもう恋人というより家族って感じで、恋というより愛なんだと思います

どちらかというとこれまでの人生では、家族というより恋人、愛より恋って感じの(ちょい悪な)相手ばかり選んできたシロさんが、ケンジに出会えてよかったって本当に思ったし、よしなが先生の同人誌(ケンジとシロさん1巻)で、自分ケンシロのセクシャルな表現読めるかな…って不安がりながら読んで号泣した時のことを思い出した 未読の方ぜひ読んでみてください めっちゃ「この二人が出会えてよかった…」って思えるので…

しかし改めてよしなが先生凄いなって思ったのは、ケンジのご実家の『しっくり感』ね… ケンジの人格を育んだ環境、これ以上ない「わかりみ」ですよね ケンジの母ちゃんかっこいいんだ… 「知り合いの泥棒みたいなもん」、原作でも印象深かったこの台詞、ばしっと言っててすごくかっこよかった…

しかしハコヅメのドラマでも思ったけど、基本1話完結型のお話を1本の物語に纏める脚本の方は凄いですね…

「死ぬの!?」っていう笑いとる場面をひっくり返してシロさんでもやってきたの、構成の妙…と思ったし、シロさんの「死ぬのか…!?」が悲壮すぎて笑いながら泣けてしまった DINKSが相手に先立たれることの恐怖…他人事じゃねえんだ……

ホント年齢的に全然他人事じゃない問題が盛りだくさんで、この映画すごく面白いしクスッと笑えるししみじみといい映画だったな~って思えるんだけど、それだけじゃなくてこう、身につまされるというか、ああ自分もちゃんと考えなきゃなあって思うことがたっくさん入ってるんですよね… 親のこと、住む家のこと、老いていく身体、もろもろ

歳をとると、絶対に誰の身にもいろんなことが降りかかってきて、たとえ子どもがいて孫がいて地位もあってはたから見たら一見幸せそうでも、「会いたくないんだって」ってりんごを片手にドライに言う所長の姿とかもあったり…何も悩みのない人なんかいない… 

なんかラスト近くのお花見の場面で(原作では昼間に一緒にお花見をした)佳代子さんご一家が川の向こう側にいて、赤子連れで「筧さんまた今度ね!」って手を振っていて、その人たちは近くて遠い、触れない向こう側で笑っていて、こちらも笑って手を振った後に、ケンジの待つ二人だけのお花見の場に向かう、っていうのが象徴的だった気がする…

二人が満開の桜を見上げながら言う言葉が「なんだかんだで俺たち幸せだね」じゃなく「あーあ俺たち歳とったなあ」なのが、このハッピー大爆発!でない映画の締めくくりなの、美しすぎるな…

そうなんだよ、現実に「二人はいつまでも平和に暮らしましたとさ、めでたしめでたし」なんていうハッピーエンドはなくて、一見ハッピーエンドに見える場所で、いちいち大騒ぎするほどでない些末な面倒ごとや、ちょっとした嫌な出来事なんかに見舞われながら、それでもわたしたちは生きていくんだという気持ちで… なんかもう、映画を観たというよりケンジとシロさんの人生の一部分を覗かせてもらったみたいな、そういう気持ちでじんわりしながら映画館を出ました すごくよかった…

続編もぜひドラマでお願いしたい… 次はケンジのご家族に会うとことかいろいろ、もう原作がラストを迎えたらちゃんとドラマもそこまでやってほしいですね

制作陣の愛を感じました 雑記みたいになっちゃったけど いい映画をありがとうございました

映画『映画大好きポンポさん』の感想

とても親切で分かりやすい映画だった。かといって子ども向けという訳でもないので、ちょうど今話題になっている「時代が求めている分かりやすさ」のお手本のような映画だなと思った。というと何か感じ悪い言い方になるけど、誰が見てもちゃんと分かるというのは間違いなく大事な要素である、いつの時代でも。
ジーンくんだけが特出して身を削っているが、他のメンバーは基本的に常識の範囲内で仕事をしており(大事なプレゼンの前に残業することはあっても)、「産みの苦しみ」はあっても視聴ストレスは少なく、人物に共感しやすかった。
登場人物がみんないいやつばかりで、素人監督のジーンくんや新人女優なのに主演の座を与えられたナタリーちゃんに嫌味を言ったりいやがらせをしてくるような小物モブがいなくて、ベテラン製作陣は人間としても器が大きく素直に尊敬できる人たちで、最後までみんななかよしで観ていて嫌な気分になる場面がなかった。

周りの人間に嫌な奴がいなくて、みんな協力的な現場でも、やっぱり最後は一人で産みの苦しみを味わなくてはいけないというところが良かった。
撮影が終わるところまではあまりにもストレスがなさすぎて「うまく行き過ぎている」と少し思うことがあった。
監督も主演女優も素人同然なのにこんなにうまくいっていいのか?ジーンくんが憧れによって脳内でカメラを回し続けていたとしても、実質初めてフィルムを撮るのにこんなに何もかもちゃんとしているものだろうか?それだとジーンくんが「天才」になりすぎないか?天才が天才によって見出されその能力に見合った成功を収めるという、ただそれだけの物語にわたしは感情移入できるか?
楽しく観ている最中、クランクアップパーティーのシーンで、そんな不安がふと頭をよぎった。

でもそのあとに続く「さあ、楽しい楽しい編集の時間だ」から、無間地獄がちゃんと始まる。
ジーンくんはその前のシーンで短いプロモーション用の映像をばっちり完成させており、編集に関してはそれなりに自信をもっている(わたしたちも彼の実力に信頼を置いている)。そのジーンくんが、自分自身で回してきたフィルムを切り捨てることに苦悩する場面がとてもいい。
ここでジーンくんがぶち当たるのは、映画は誰の為にあるのかという命題だ。

物語の序盤に、ジーンくんはベテラン監督から「不特定多数の観客に向けるのではなく、一人の観客にフォーカスして映画を撮ると良い」というアドバイスを受ける。このカットで、明確にその「一人の観客」とは誰あろうポンポさんであると明示される。話を聞きながらジーンくんの目がポンポさんに焦点を合わせたことが我々にもはっきりと伝わる。だから、わたしたちはこの『マイスター』という映画をジーンくんはポンポさんに見せるために撮っているのだと思いながら映画製作を見守ってきたわけだが、編集の段階まできてジーンくんは「誰のために作るのか」というクリエイターの壁にぶちあたる。
この映画を誰に見せたいかで言えば「ポンポさんに見せたい」だけど、じゃあ「ポンポさんのために作るのか?」となるとそれは違う。そこでジーンくんは苦悩する。そうして、決断する。「これは僕だ」「僕のための映画だ」と思い込むことを。
クリエイターにエゴは必要であるというが、結局のところ「ポンポさんに見せるため」にカメラを回したとしても、その作品はポンポさんという「他人」のものではなく、やっぱり作り手である「ジーンくんによる、ジーンくんのための物語」でなくてはならないのだ。クリエイターには、その思い込みが必要なのだ。そうでなくては、ポンポさんをはじめとする「他人」の胸を打つだけの説得力は持てない。だから、ジーンくんは切る。楽しかった撮影の思い出も。憧れのスターたちの名演も。現場で痺れた数々の場面、ヒロインの登場シーンさえ。

この映画のタイトルは『映画大好きポンポさん』だけれど、実際ポンポさんは本当に「映画大好き」なのだろうか?
ポンポさんは、偉大な映画プロデューサーである祖父から莫大なコネクションと共に映画作りに必要な才能を受け継いでいる。すぐれた才能を見出す審美眼を持ち、適材を適所に配置する能力がある。ポンポさんは映画に愛されている人なのだろう。……では、ポンポさんは映画が本当に「大好き」なのか?
ポンポさんは幼少の頃に祖父からほぼ強制的に大量の映画を見せられた。幼い頃の自分にとって、2時間3時間もの間画面を注視し続けるのは苦痛だったとポンポさんは語る。だから長い映画は「嫌い」だと。
そんなポンポさんは、その稀有な才能にも関わらず今ではB級映画ばかりを作っている。B級といってもすぐれた作品なのには違いないが、ニャカデミー賞を獲るような大作というよりは頭を使わずに見れるようなおバカ映画を好んでいるようだ。それは、ポンポさんが本心からB級映画が大好きだからなのか?――否、彼女は言う。「映画って極論ヒロインをかわいく見せられればいい」と。
映画にはいろんな作品があって、歴史スペクタクルや壮大なファンタジーも、頭からっぽで見れるコメディものもすべて映画だ。だからポンポさんがチョイスするのが前者でなく後者であろうとも、映画好きであることに変わりはない。にしても、何時間でも映画を見続けていたいギークであるジーンくんより、ポンポさんの方が映画への熱量が低いことは疑いようがない。タイトルに偽りあり、である。作品に合ったタイトルにするのであれば「映画大好きジーンくん」とつけるべきだ。
でも、この映画…というかこの作品は、『映画大好きポンポさん』なのである。ポンポさんが自分の口から映画(という文化)を大好きであると明言する場面がないにも関わらず、だ。

ポンポさんは、幼い頃から祖父に付き合わされて望むと望まざるとに関わらず映画を見てきた人だ。その英才教育によって培われた類い稀な才能から、ポンポさんは望むと望まざるとに関わらず映画作りの才ある人が見抜けるし、一度見出したが最後、彼らがその才を遺憾なく発揮できる場を設けないと気が済まなくなってしまう人だ。だから、女優の原石に眠っている光を見出したが最後、彼女のための脚本を書きあげてしまう。
でも、ポンポさん自身が満足する映画を自分で作ることはできない。彼女が普段作るのはB級映画ばかりで、なぜかというと彼女には「自分が満足する(大好きになれる)映画を自分では作れない」という諦念があるからだ。
そこで映画が大好きなジーンくんは、「この自分の好きな映画を自分では撮れない少女のために、彼女が大好きになれるような映画を僕が撮ろう」と決意する。一人の観客にフォーカスして作るなら、その一人をポンポさんと定めた訳だ。
スイスでの撮影中、ジーンくんは良いシーンが撮れるとビビビと痺れながら良さを実感した後に、ポンポさんを振り返って(今の良かったですよね!)(これならポンポさんも喜んでくれますよね?)と確認している。ポンポさんはジーンくんの頑張りに応えるよう、あるいは背中を押すように「この映画、間違いなくニャカデミー賞獲っちゃうぜ」とほくそ笑む。
しかしポンポさんは、「間違いなく名作になる」「かならず評価される」とは言うものの、「好きだ」とは言わない。ポンポさんがこの作品を「大好きだ」と言うのは、ジーンくんがエゴに振り切ってみんなで撮影した良いシーンをぶった切り、ポンポさんが書いた脚本に上乗せした後だ。
ジーンくんが『マイスター』を「僕の作品だ」「ここに描かれているのは僕自身だ」と強く思えた瞬間から、『マイスター』はポンポさんの手を離れ、ジーンくんの作品になり、それによってようやくポンポさんは「好きなものを作れた」ことになった。自分が携わった作品を「大好きな映画」と賛辞することができる幸せを、ようやくポンポさんは得ることができたのである。

『映画大好きポンポさん』というタイトルと、実際作中に描かれているポンポさんとの乖離が気になっていたのだけれど、つまりこの映画は「映画の世界に生きるポンポさんが、自分が本当に大好きな映画を手に入れるまでのストーリー」なのだと思う。
この映画の主人公はジーンくんだけれど、主題はポンポさんなのだ。
好きなことを仕事にし、自分の作るものに誇りをもって生きることの幸せ、仕事人たちの孤独と連帯、最終的にはものづくりがいかに幸せなことか、が描かれていて、そういう主題の作品はだいたい気持ちがいいものだけれど、この映画はことさらに映画に対する愛が詰まっていて、いきいきしたキャラクターたちの表情の向こうに、この『映画大好きポンポさん』を作った人たちのものづくりにかける想いを見ることができたのが、なにより気持ち良かった。
よい映画をありがとうございました。

新刊チラシの裏「稲羽商店街よもやま話」

気付けばまたイベント終わって1週間も経ってた。いつものことながら、原稿やってないと時間が一瞬で過ぎる。わたしは一体何をしていたんだろうか…(ゲームをしていました)

 

新刊は今回も全年齢、前からずっと書きたかった「第三者目線で眺める主花」、出してみたかった文庫サイズの本です。

文庫サイズ、やっぱりいいですね。軽くて読みやすい!本を作ったぞ!という感動もひとしおです。文庫サイズハマるかも…

 

「稲羽商店街よもやま話」というタイトルからしてなんか古臭い感じですけど、内容もタイトルも、ねじめ正一さんの『高円寺純情商店街』とか三浦しをんさんの『神去なあなあ日常』をイメージして作りました。懐かしいタイプの群像劇っていうか…

サブタイトルの『六月のテスラコイル』も、『純情商店街』収録の『六月のはえとり紙』のオマージュです。伝わらない物真似!

短編集という体をとって通しのお話を描くっていうのがやってみたくて… そんでできれば、1本1本の話を取り出して読んでも物語として成立してて、それぞれに読み口・文章の雰囲気が違って、そんで前の話でちょろっと出てきた人や物がのちにちょっと話に絡んでくるみたいなのを目指したんですが、どうでしたでしょうか。

スナック紫路宮のところとか、結構気に入っています 自分では雰囲気変えたつもりだけど、どうだろうか。ママのキャラが原作から乖離しすぎているきらいはあるが

 

今回は結構創作が入ったなー… できるだけ原作通り、「ゲームの裏で本当にこんなことが起こっていたのでは」と思えるようなお話を常に目標にしてるんですけど、今回は今までで一番そう思える話にできるテイストの予定だったが、出来上がってみると一番、自分の創作に近い感じ(ぺよんの原作から外れた)になったかもしれない気がする…良きにつけ悪しきにつけ

ご承知のことと思いますが、一応書いておくと、だいだら。の親父の過去(職業遍歴やだいだら。開店の経緯)はすべて創作、ほか四目内堂書店の書店員さんは一切本編に出てこないし、りせのおばあちゃんについてもほとんど描かれてない(丸久豆腐店に行くシーンと、りせの夜会話で少し触れるくらい?)。あいかちゃんはアニメのオリキャラで、ゲームには出てこない(店長が少し娘のことを喋る程度)。惣菜大学夫妻の関係性やお互いに関して思ってることなどは、ほぼほぼ捏造です。そうだ、紫路宮で番長くんがバーテンしてるのも創作ですね…ほとんど皿洗いと食器片付けくらいしかやってないもんね。

原作にない部分を創作するのはある程度仕方ないんだけど、原作でうろ覚えのところを創作してしまうのは主義に反するんですが、何分やり直す時間がなく、設定資料集とかペルソナ倶楽部を参考文献にしつつ書きました。今回、書いてる最中に「これ本当は原作だと違うんだよな…」と自分で分かってて変更したところがいくつかありましたね…

まず四六のおばちゃんは陽介推しではなく本当は番長くん派というところ(原作の学祭後に「女装コンで坊ちゃん(番長くん)に投票したよ」という台詞がある)。あと、だいだら。の親父と紫路宮のママの一人称は「ワシ」「アタシ」と本当はカタカナであるところ。このへんは原作通りじゃないことを分かってやってます。惣菜大学に関しても、ゲームやり直したら「全然違うーー」って自分で発狂しそうになるんじゃないかって予感がパない

四目内堂の店長さんの性別は特に決めてません。普通に読んだら女性で腐女子に見える感じですが、まあそこは読む方のお好みで…

 

一番難しかったのは、なんといっても尚紀くんです。

わたしは尚紀くんも彼のコミュも大好きで、大好きな反面花村陽介と尚紀くんの関係性がすご~~~く気になっていて、この二人について一晩語り合いたいくらいなんですがどなたか一緒に語ってくれませんか…

花村陽介のオタクとしては尚紀くんのことがとても気になるけど近寄りがたさも感じていて、刑死者コミュの花村陽介の言動についてもいろいろ言いたいことがあるっていうかあれはかなりのBADコミュニケーションだった(ように見えた)ため、花村よう…お前……言いたいことは分かるが相手の気持ちも…汲んであげて…それを言うのはもっと打ち解けてからでいい……でも花村くんだってまだ17歳……そこまで配慮できるほど大人じゃないよね…おじさんにはわかるよ…みたいな感じで みたいな感じとはなんだ

あの(ジュネスに尚紀が来た)後、家に帰って陽介は(本当にあれでよかったのかな~~なんか俺しくじった気がする~~~)ってグルグル考えこんだと思うし、番長くんに「俺なんかヘンなこと言ってなかった?;;」みたいな感じに泣きついてたんじゃないかと思う… 辛辣なんだよなまた、番長くんも「一緒にするな」みたいな選択肢あるし…

全然話が逸れました 拙作の話でしたね

いや、ほんとうにだから原作のあのくらいの感じ…陽介的には気になってて踏み込みたいけど、尚紀くん的には普通に放っといてほしい、そもそもノリが合わない…みたいな感じが好きで……でも、花村くんと小西家のことはすごく大事なテーマで、尚紀くんとの絡みもいつか書いてみたいなってずっと思ってて 今回意を決して書くぞ~~!ってトライしてみたんですが、いやーーーやっぱり難しくて、一応おさまるべきところに収める形で着地はできたけど、出したあともなんとなく自分との解釈違いというか… なんかズレてる気がする…というモヤモヤを抱えたままになっているので、また別の解釈の尚紀くんとヨースケも書きたいです 完全に和解させてしまうのは違うし、近すぎず遠すぎずの距離にいてほしいんだよな…

本当にリアルに考えたらまあ、普通にほとんど絡まずに卒業するんだろうけど、花村陽介のオタクで主花推しのわたしが「尚紀くんに赦されたい」と思うの、尚紀くんが好きな人からしてみたらエゴエゴのエゴだよなーーーーみたいに悶々としてしまうので… そういう意味で、今回の話を書いて自分が悶々とするのは当然の理 だって都合がいいもんな… そんな悶々とするなら書くなよとお思いでしょうが、気になると書かずにはおれないんですよね だって尚紀くんが好きなので… そして早紀ちゃんが好きで、早紀ちゃんを喪った花村陽介が好きなので……

とりあえず花村陽介と尚紀くんのお話、花村陽介と早紀ちゃんのお話、主花と尚紀くんのお話は大好きなのでもしそういうお話にお心当たりがあったら是非教えてください たくさん浴びたい

 

自分に都合のいい創作や、原作通りが難しくて捻じ曲げてしまった部分にもやっとするところは多少はあるけど、それでも結構気に入って書けたお話です 短編いっぱい書けて楽しかった!

拙作と原作との違いを見つけるためにP4Gをぜひやり直してみてください そんでやっぱぺよんって面白いな!と改めて思ってもらえたら最高に嬉しいです

新刊およびこの言い訳めいた駄文を最後までお読みいただいてありがとうございました!この次も、サービスサービス!

シン・エヴァンゲリオン感想(ネタバレ注意)

1日経ってまだ完全に消化できたとは言えないまでも、だいぶ頭と心は落ち着いてきた。
何にせよ、「エヴァがちゃんと完結して良かった」に尽きます。庵野監督本当にお疲れ様でした。

エヴァは、子どもであるシンジと、大人(≒親)であるゲンドウの物語であり、同時に庵野秀明という個人の物語でもあると思っていた。テレビアニメシリーズから長い経緯を経て、そのシンジとゲンドウ、庵野秀明を中心とした世界に、他のたくさんの人の想いが載る物語になったんだな、って、シンエヴァを観て強く感じた。
テレビアニメシリーズの最初の時点で、ここまで大きな物語になるとは、間違いなく監督も考えてはいなかったろう。それが、話が進むにつれ自分一人の腕では抱えきれないほど多くの人の想いが物語に載ってしまい、落とし前をつけたい、つけなきゃ、という気持ち(と若さ)が暴走した結果できたのがEOEなんだろうし、EOEを叩きつけてエヴァンゲリオンを終わらせた後に、しかし庵野自身が、このままではいけない、この呪いを抱えたままでは創作者として行き詰まる、と気付き、「EOEの呪いを解く」覚悟を決めてエヴァを再構築したのが、序破急の新劇場版なのだろう。
シンは「急」で本当に終わらせるつもりだったのか勘繰りたくなるほどのボリュームであったが、あまりにQの世界が冷たすぎ、シンの世界が温かいことから、Qとシンは「破壊からの再生」として本来は1本にまとめるべき(まとめたかった)話であったと思う。二作に分断したのは、断腸の思いだったのではないだろうか。
シンを待っていた今まではとにかく、これからはQだけを採り上げて批評批判するのはやめにしませんか。シンのためのQだったのは、シンを観た人ならだれもが分かったはずなので(ていうかもう嫌なんだわたしは、Qを大喜利のネタみたいに扱うのにはもううんざりなんだよ…)。

改めて、エヴァンゲリオンは、シンジとゲンドウを中心とした物語である。
子どものままでいたいと願う子どもと、自分自身も大人になりきれていないことを自覚しているからこそ子どものままでいようとする子どもの姿に苛立つ大人、その双方が立ち止まり、苦しみ藻掻きながら、最終的には子が成長することを寿ぐ物語になった。
子であるシンジに対して、ゲンドウは一度として導き手たり得ない。シンジを成長させるのは、他者であるミサトや加持であったり、レイやアスカやマリであったり、トウジやケンスケであった。この「周囲の人間のお蔭でシンジが成長した」という描写は、長い長いエヴァンゲリオンの物語の中で唯一、シンにしか描かれていないものだ。
我々は数多の物語で、或いは自らの人生で、子どもは親だけが育てるのでないと知っている。自分自身だって、周囲の人間に与えられた影響があって今ここに立っている。誰もが知るそのことを、シンジくんが初めて自覚し、それを親たる存在(ゲンドウであったりミサトであったり)に自分の言葉で伝え、過酷な運命を乗り越えて成長できたことが、何より嬉しい。かっこよくなったね、シンジくん。庵野監督はシンジを、あの、物語史上でも稀に見る弱虫で舐められがちな主人公を、ついに最高のヒーローにしてくれた。何よりもまずそれが嬉しい。
シンで何故「周囲の人間のお蔭でシンジが一回り成長」できたのかというと、エヴァはもはや庵野個人の物語ではなく、たくさんの人の想いが載った物語になったからなのだろうと思う。
庵野以外の人が自分(エヴァ)を好きでいる気持ちを、すごく大事にしてくれた物語でした。シンジくんがキャラを一人ずつ救済してくれた描写に、オタクたるわたしの愛も報われた。
わたしは今回、全然監督に突き放されたとは思わなかったな。むしろ「俺EOEであんな無茶苦茶したのに嫌わないでついてきてくれてありがとな」って言ってもらえた気がした。
そもそも、エヴァってオタクにすごく優しい物語だと思う。エヴァはオタクが考察して楽しむことを前提に作られてる話で、オタク同士で知恵を持ち寄り一生懸命頭をひねれば、ちゃんと謎が解ける難易度に設定されている。
エヴァが終わってしまった今、我々は一体どの作品を夜を徹して語ればいいのだろう?それくらい、オタクとエヴァについて話すのは、いつだって楽しかった。まさか四半世紀も、この遊びを続けられるとは思わなかった。中学・高校から大学、社会人、結婚相手を通じて、わたしは何人ものオタクたちとエヴァについて話す、楽しい人生を送ってきた。エヴァがあったから仲良くなれた人もいたと思う。ありがとうすべてのエヴァンゲリオン

 

内容についてほぼ触れずにえらい長くなってしまいすみません。

以降は、ここまでほぼ触れられなかった、ストーリーの内容について語りたい。


まずわたしは、序盤にトウジが出てきた時点でもう「勝ったな」と思いました。(初号機が暴走した時の冬月のポーズ)
鈴原トウジエヴァンゲリオンの良心、エヴァにおける光である。
トウジという光が、『命の選択を』で消されることなく(あの男は、あんな目に遭い片足失くしてもなお淡く光ってたけどな…)、ネオサーの後も明るく逞しく、そしてシンジを恨むことなく生きていたというだけで、もう我々の勝利は約束されたも同然であった。
トウジとケンスケ、ヒカリら「日常担当」の面々が、昭和のような懐かしい景色の中で希望を失わずに日々を生き、子を産み育て、その中でシンジやレイ(β)が再生していく展開は、わたしにはまったく予想外だった。こんな明るい救済の仕方が、この物語に用意されているとは夢にも思わなかった。
でも、そうだ。庵野監督は『シンゴジラ』で、日本という国が勇ましく現実と戦い、そして復興していく姿を描いていたんだった。レイが人の心を得、シンジを立ち直らせるに足る舞台は、エヴァという物語の中にもちゃんと用意されてあったのだ。

あの、我々がかつて愛した旧エヴァの中で発したのと同じ台詞を、再びレイが言う。「これが涙?泣いているのは、わたし?」
レイがシンジを守るため、零号機と共に自爆することを決めた場面で口にされた哀しい台詞を、今回この場面に持ってくることに、わたしも落涙せざるを得ませんでした。けど、その場で消えずにちゃんとシンジくんに会ってお別れを言えたことで、救いがある終わり方になっていたのが良かった。
ケンスケによる「今のこの世界」の解説は、ミサトやリツコがするよりなんだか優しい感じがする。シンジを追い詰めないよう配慮された言葉だからか。ケンスケとトウジが、あの時から(容姿も中身も)変わらない子どものままのシンジを受け入れ、友達として遇してくれたことが嬉しかった。

ケンスケといえばアスカですけど、大人になったケンスケの外見がちょっと加持さんを彷彿とさせる感じだったのは、アスカにとっての保護者を我々にダブらせる意図だったのかな?
アスカは男の趣味がいいですね。ケンスケがフォースインパクトを目前にして、最前線で怯まずに8ミリを回している場面にはぐっときました。ええ男になったな。

エヴァには乗らんといてくださいよ」と「行きなさいシンジくん」からの「あなたはもう何もしないで」を、ちゃんと回収・救済してくれて本当にありがとう~~!!ツイッター大喜利で「エヴァといえば」みたいな感じにイジり倒されて本当につらかったよわたしは。
特にわたしはエヴァで一番好きなキャラがミサトさんなので、掌返しって言われたり「大人のキス」を揶揄されたりゲンドウと同じくらい駄目な大人の代表みたく言われて傷つきまくっていたので、シンでの彼女の在り方に心の底からほっとしました。本当に、理想通りのミサトさんでした。そうなんすよ、ミサトさんはかっけーんすよ。
ミサトさんがまたシンジを庇ってEOEで被弾したのと同じ場所を撃たれた時、めちゃめちゃ泣きました。つーかあそこの場面、やばくないすか。ミサトもシンジも成長し、理解し合って、失った時間を埋めるかのようにつかの間語り合うあの場面、素晴らしかったよ…。わたしはこれが見たかったんだ、ずっと。
「リョウジくんと会ったよ。すごくいい奴だった」一言一句合ってるかは分かりませんけどこの台詞を言ってるときのシンジくんが優しくて、大人でね…。「いい人」じゃなく「いい奴」なのがいいよね。シンジがミサトを信頼して、赦して、救おうとしている言葉なのが伝わりましたね。ゼルエル戦の「ミサトさん!」「五番射出急いで!」が、今までで最もシンジとミサトが通じ合えた瞬間だった(と思ってた)けど、あの場面の信頼関係を最後に超えられたの、最高でしたね。書きながら今も思い出し泣いてる。
ミサトさんもですけど、加持さんもかっこよかったですね、出てこないけど。
けど加持さんはずっとかっこいいので、「今までもずっとかっこよかった加持さんだが、今回なんと、我々が思っている以上にかっこよかったことが判明した」という感じでしたね。
加持さんは寝ても覚めてもずっとかっこいいからずりーよな。どろ臭く足掻いてみっともないこと沢山しながらかっこよくなっていくミサトが好きだよ。畜生、リョウジくんにかっこよくならない要素がない。だって既にかっこいいもんな、リョウジくん。存在がもう救いだもんな…。

さてゲンドウについてですが、今回彼が救済されてよかったなと思えた理由は、新劇場版からのゲンドウはリツコとリツコの母親に手を出していないからですね…。
今思えば、あれは物語をより陰惨にするための要素だったので、新劇まで持ち越されなくてマジでよかった。赤木親子を食ったゲンドウは、初号機に喰われて死んでよし。亡き妻だけを一人の女としたゲンドウだから、最愛の女に会って良し!
おかげで今回はリツコも遠慮なく元上司に向かってバンバン発砲、無事脳髄をぶっとばせました。OKナイスりっちゃん。ベタだけどそれまで「艦長」とかお互い役職で呼び合ってたところが最後に「ミサト」呼びになるの、全人類が大好物なやつだぜ。

本当にゲンドウという人間をここまで掘り下げて描写するとは思っていなかった。誰もが認めるラスボスであるにも関わらず、ゲンドウのことは今までほとんど語られないままだったから。
知らなくていい情報、というより、シンジは知り得ない情報だったということだろう、これまでは。だからシンジの視点に立つ我々にも、ゲンドウの情報は開示されない。シンジがゲンドウを超えて初めて、彼の過去と、人となりが語られた。
想像以上に普通で、妻を若くして亡くしたこと以外はとりたてて変わったところのないただの「俺ら」だった。信頼できる友人を持たず、心を閉ざして生きることに慣れ、唯一心を開いた女性以外に何一つ拠り所を持たない男。一人息子であるシンジも、拠り所なき自分の生き写しのようで愛することができず、ずっと背を向けてきた男。
でも、そのシンジの中にこそ、探し求めた妻は残っていたのだ。シンジの半分はたしかにゲンドウだが、もう半分は、ユイでできているのだ。そんな当たり前のことに、四半世紀経った今ようやくゲンドウが気づいて、駅のホームで泣いている「あの幼い日のシンジ」を抱きしめたとき、とうとうこの長い親子の確執に決着がついたのだと思った。

観終わったあとずっと「渚司令とは?」って考えていたんだけど、カヲルくんは、ゲンドウがこうなりたいと思う理想の姿だったのかなと昨日の夜ふと思った。シンジに寄り添い、支え、幸せにしてあげられる存在で、永遠の少年。だから知識豊富でピアノが上手いのかな。シンジにピアノを教え、連弾がしたかったのは、本当はゲンドウだったのかもしれない。
今回のカヲルくんが使徒だったかどうか、ちゃんと考察できてないんですが、使徒というのは「こうだったかもしれない」進化の可能性ということなので、カヲルくんはゲンドウの「こうだったかもしれない(こうなりたかった、こうだったらよかった)」なのかもと…。
(だから、ラストシーンでレイとカヲルが一緒にいるのかも)

アスカがレイと同じ「仕組まれたチルドレン」になったのは、旧劇のラストでシンジを拒絶したことと繋がっているんだろうか?
だとしたら、やはり新劇場版の世界はEOEから転生した世界なのかな。
ずっと不幸続きだったアスカがケンスケという「普通」によって救済されてよかった。「気持ち悪い」の時と近しい状況にあって、シンジとちゃんと話ができてよかった。アスカが自分からシンジに向き合いに行けてよかった。

アスカとマリは、新劇場版の謎と直結する存在なので、もう少し考えていきたい。まだちょっとよく理解できていない。
マジでマリって何者だったんだ?少なくともシンジが生まれた頃からゲンドウたちと同じくらいの年齢で実在していた人のようだ。
メタ的には「マリ=安野モヨコ」と言われているみたいだが、うーーーーん分かるけど、分かるけどなっんか違う気がする。たしかに本当に庵野監督はモヨタンと結婚してよかったねとどちゃくそ思うけど(わたしは元々どっちのアンノもファンなんですよ)、マリとシンジが最後あれ、どうなってああなった??っていうのも、正直よく分かってないしな。
あと、「〇〇のマリアか」って冬月が言ってたのもなんだったっけ?やっぱ一度観ただけではちゃんと考察しきれないですね。他のオタクの意見聞きたいです。

あと、アスカの子どもの頃のイマジナリー(?)映像出てくるけど、あれ雪降ってるってことは冬なんかな。冬があるってことはセカンドインパクト前ってことだよな。でも幼いシンジくんがパパママと一緒にいて??
セカンドインパクトで地軸が歪んで日本は常夏っていう設定、もしかして新劇場版では出てきてない?もうどこまでが今回に引き継いだ設定なのか整理できてませんね。やっぱりもっと掘り下げないといけない部分まだまだたくさんあるな、エヴァンゲリオンは。

前半でかなり書いたから敢えて後半では触れなくていいかとも思ったけどやっぱりここまできたらシンジくんについても書こう。
本当にかっこいいヒーローになってくれて、四半世紀も彼にやきもきさせられてきた我々は感無量ですよ。EOEでは結局、ろくに成長なんかしなかったですからね。「僕に優しくしてよ!!」とアスカにキレ散らかしていたシンジくんが、「みんななんでそんなに優しいんだよ…!」って泣きながら言えたの、それだけでもうすごい成長ですよね……。
まどかが魔法少女たちを一人一人救っていったのを思い出しました。しゃがんでる時間が長いほど、人は神に近づけるのかもしれません。
ラストでCV神木くんになったのは、永遠の14歳だったシンジがちゃんと大人になれたことの象徴で、良かったんだけど、演出意図はよく分かるんだけど、どうしても「長らくシンジを演じてきた緒方恵美さんに、シンジとして最後の台詞を言ってほしかった」というオタクのエゴは残る。けど、あれで良かったんだよな…。子どもの頃と同じ声をしていたのでは、大人の男になったという表現が完成しないものな……。

とりとめなく挙げてきたけど、本当にぐっときたシーンがいっぱいありました。
あ、あのピンク髪の若い女子が巨大な綾波見て「なにこれ、変!」みたいなことを言ったの、はっとしましたね!
あのピンク髪は、(メタ的には)新劇場版からのエヴァファンですね。いやーー本当だよね、俺らEOEで見慣れちゃったからでっかい綾波出てきても今更驚きゃしないけどさ、普通「なにこれ、変!」だよね。よくぞ言った!と思った。あの子の素直な感想、大事にしたい。

なんかもう本当にいろいろあって、途中のシンジ対ゲンドウの初号機対決がクロノトリガーとかちょい懐かしいゲームのラストバトルみたいな演出だなと思ったのとか、シンジくんの目が紫色に光ったところで「今残テ流したらころす!!!!!」って心で叫んだ(流れなくて本当に良かった)とか、裸の首なし綾波が大量に行進してるとこのCGがクソ安っぽくてなにあれと思ってたんだけど、EOEと同じCG使ってたらしくて、EOE昇華の儀式だと気づいた友人があそこで「ニチャア…」って笑ったわって言ったのを聞いて そこまでするのか…と思ったし実際そこ以外にも安っちいCGたくさんあったからもう分かる人にだけ伝われなネタほかにもいっぱいありそうだなとか、間に合わなかった訳がないのにコンテとか原画ママとか入れないといけないのかエヴァンゲリオンには…とか、本当にいろいろがありました。

でも本当に、マジで庵野秀明さんがこれでエヴァの呪縛から解き放たれて、よかったです。
いっぱい陶芸して、大好きなウルトラマンをまた撮ったり演ったりして、夫婦仲良く元気に創作し続けてくれたら、これに勝る喜びはないです。
みんなエヴァ完走お疲れ!!これからも元気に生きてこうな

新刊『神々が別れた幻想の外』解説(と言い訳)

イベントお疲れさまでした!

素敵なお手紙を頂戴したり、既刊をたくさん手に取っていただけたり、嬉しいことがたくさん起きる素晴らしい1日を過ごせました。スペースにお越し下さった皆様、ありがとうございました…!

今回の本は、(何度か言ってますが)主花で初めての全年齢本です。

わたしが主花で本出したいな!と思ったときに、当時のサークルさんみんな年齢指定のご本を出されていて、読む分にはありがてえ限りだが自分も出すとなるとハードル高いぜ…ってビビリつつ、あまり得意でないえろを書いていたわたしですけども、主花を書き続けるうちに年齢指定なしの話ってどんなだっけ???ってなるくらいえろ書くのが楽しくなってしまい、慣れってすげーなと思いました(息つぎなし)

でも今回は全年齢です。そこ何度も強調する必要ある??と思われるでしょうが、性癖をさらけた年齢指定本より、今回の全年齢本のほうがなんぼも恥ずかしい本になった…んですよ いやもう、なんていうかね…

読んでいただけた方はもうお分かりでしょうが、わたしには致命的に厨二の才能がないのだな…ということが今回よくわかりました 勉強不足です 申し訳ない…

厨二って馬鹿にしてるんじゃなくほんとね、センスだなと思いました センスは磨かないと光らないじゃないですか 磨いていないんですよわたしは 厨二のセンスを…たまに書こうとするとこういうことになりますね…ヨボ

以下、箇条書きで解説述べていきます 新刊のネタバレしかないのでご注意ください。あと、「後から解説をくっつけるのダサ。本で全部説明しろし」と思う人はここまでで読むのをおやめくださいね。そうできたら良かったんじゃがの…フウ

これ解説なしで読んだ人ちんぷんかんぷんなのでは …?という不安が拭い去れず、(ちんぷんかんぷんだった≒読んで楽しめなかった本の解説をわざわざ見に来てくれる人いるのか?とも思いつつ)ここに作者の意図を置いておこうと思いますが、わたしが狙った意図ではない読み取り方をした人がもしいたとして、自分の解釈と違った!ガーンってなったら申し訳ないです あの、全然好きな風に読んでいただいて大丈夫ですよ…!楽しんでいただけたのなら、どんな読み方をしてもいいんですが 読みながら「???」となった方の一助となれば幸いです ほんと…話読めば全部わかるような話にしなきゃいけないんですがね すみません 謝ってばっかりだな…!!

 

①ナミちゃんが唱える呪言みたいなやつについて

お察しの通りP3の綾時くんパロなんですけど、呪文のセンスが圧倒的にねえ~~~。語彙力の不足を痛感しました。

綾時くんは1つのアルカナに対し1つの台詞を話していたけど、今作のナミちゃんは3つずつアルカナを消費していて、3つのアルカナの示すモチーフをなんとなくこう いい感じに組み合わせて呪文にしてるんですけどこれを考えるのがほんっっとに苦手で、書いてるうちに一人でウワアアアアア/////ってなってしまって なら書くなよ…

多分分かっていただけるはず…と願いつつ書いてたんですが、今回のお話ではアルカナの大きい順から消えていきます アルカナが消えるとコミュが消えるので、コミュ相手は番長くんのことを忘れてしまい、力も失う という設定でした

(P4無印の)一番最後のアルカナ【世界】は、コミュがなくてペルソナは伊邪那岐大神だけなのですが、このお話の番長くんは伊邪那岐大神を召喚するに至らないうちにナミ様に攫われてしまったので、【世界】のアルカナを持ってない(けど一番最後に覚醒する)ということで、一番最初に消えたのは【審判】でした

3つずつ後ろから順番に消えていくと一番最後に残るのがアルカナⅠの【魔術師】で、オーラスが0の【愚者】で、愚者までいくと番長くんの存在自体が消えて黄泉の国に行っちゃうよ、という話でした と解説しないとわかんねーよな!すみません

 

綾時くんの「そのアルカナは示した」をパロったのは、P3の「ニュクスによって世界が終わる」っていう超かっこいい厨二な設定を、P4でも見てみたかったからです(何度も言いますがこの文章における「厨二」はすべて褒め言葉です)

実際、P4でもナミ様は世界……というか八十稲羽……八十稲羽を滅ぼすと世界が破滅するのか?ということは疑問ですが、まあその 人間の住む世界を終わりにしちゃおうとは思っていたわけなんですよね多分 だから世界を救うためのラストバトルはP3とテーマは同じなんだけど、あの綾時くんのような一個一個アルカナを取り上げて解説して…っていう演出はP4にはなかったので(代わりに、コミュマしたアルカナの持ち主が一人ずつ出てきて呪言に囚われかけた番長くんを励ましてくれる あれも最高の演出です大好きです)、P3の、タロットモチーフにのっとった演出入るのめちゃめちゃペルソナっぽくてイイナ~~~と思ってて それでその、綾時くんと同じように世界(≒番長くんを中心とした八十稲羽という世界)を終わりにしちゃおうとするナミ様 にしたかったわけなんですけれども、これがまあムズい 本当に 照れてる場合じゃないのに照れてしまうし

難しい言い回しとか物の正しい名前とか、小説書く上でそういうギミックの部分を疎かにしてきたツケが出ました 本当に勉強不足としか お恥ずかしい限りです

まあ反省ばっかしてても読んでる人つまんないから次に行きますね ほんとすみませんこんなんで

 

②名前について

今回はじめて、個人誌の主人公名を「鳴上悠」にしました。

今まで出したわたしの本の主人公名はすべて「月森孝介」でした。実は、オンラインで(pixivとかワンライとかで)書く話の主人公は鳴上悠、本で出すなら月森孝介、っていうセルフルールをもうけていたんですよわたしは 誰も気づかないと思いますけど

鳴上悠という名前はすごくきれいな響きでもちろん素敵なんだけど、P4Aで描かれた主人公像をどうしても引っ張ってしまうので、ゲームのP4の主人公くんだよ、っていうことで月森孝介にしていたんですよね この名前も(偶然とはいえ)「花村陽介」と対になってるみたいでとても素敵だし

で今回セルフルールを破って鳴上悠にしたのは、「名前」が鍵のお話にしたかったからです 陽介が「鳴上悠」と呼ぶことによって、悠が自分の名前を思い出し、存在を取り戻す(アルカナを奪う→記憶を奪う→名前を忘れる→存在を失くす)という流れを書きたくて…

それで、あのP4A12話、伝説の主花回 ボイドクエストでの「悠――!!」で初めて陽介が下の名前を呼び、囚われた悠の手を取って現実に戻す、っていう名場面となぞらえたかったので…そしたらやっぱ主人公名は 鳴上悠だよね ていう あの、そういうあれでした

 

③クマは何故消えたか

他の人は忘れるだけなのにクマだけ消えたのは何故かというと、原作ゲームの11月ともリンクするんですけど、クマはその存在自体が異世界の産物だからです

クマは元々テレビの中に棲んでいたシャドウだったので、アルカナが消えるイコール存在が消える、忘れられるということはクマにとって(人の無意識で形成される存在であるシャドウにとって)存在の消失とイコールだ という解釈でした

最後にクマが陽介の部屋にいるということは、異世界ごと元の世界が戻ってきたということなので、他の人たちも皆記憶を取り戻した とお考えください

 

④ナミ様の目的

これはわたしの解釈なんですけど、ナミ様は今回のゲームに際して「イザナギの名前を冠するのに相応しい者探し」ていうか旦那候補競わせゲーム、みたいなことをしていたのではないかという えっと こう書くと無茶苦茶雑なんですが

自分を棄てた(黄泉国に置き去りにして逃げた)旦那に対して呪ってやるーみたいな恨み言を言ってたナミさまが、ペルソナ4のお話では外から来た3人の男たちを選んで異形の力を与えるわけですけど、その「異形の力」というのがイザナギなんですよね

番長くんはイザナギを、足立さんはマガツイザナギを使えたけど、これは(わたしの解釈では)番長くんが他の子たちと同様に自分の心の鎧としてイザナギを顕現させた というんではなくて、イザナミイザナギの形をした力を彼らに与えて競わせた結果、それぞれが元の力の因子を育てていって番長くんの場合は伊邪那岐大神になったし足立さんだとマガツイザナギに成った(生田目さんはイザナギの形を成すまで至らずにブロークンした)みたいなことだと思ってて…

だからナミ様は真エンドで、まさか自分が因子を与えた番長くんが、想像以上に育ちすぎて自分を倒しに来るまでになるとは思ってなかったので「人の子よ見事なり」って言ったのかなと思ってます

で、真エンドに至らなかった(2回フードコートに寄らなかった)番長くんが都会に帰ってこうとしたタイミングで、「よくぞイザナギを名乗るのに相応しい男に育ってくれたね よしよし」っていって、うまいこと育ったイザナギを(番長くんごと)黄泉国に連れ帰ろうとした のが今回のお話になります 長!

つまり旦那ピックアップガチャを回して出たSSRが番長くんだった みたいな話です 言い方

 

⑤結局イザナギはどうなったん?

真エンドだと番長くんはアルカナ(絆)の力で幾千の呪言を受けても踏みとどまり、イザナギ伊邪那岐大神にパワーアップさせた上で幾万の真言でもってイザナミを打ち倒します なぜこれができたかというと、アルカナ(絆)の力があったからなんですね

今回の創作ノーマルエンドルートだと、ナミ様は番長くんの育てたイザナギと一緒になるために、余計な要素…アルカナを一個ずつ削いでいきます 正しくは3つずつか

まず番長くんから「鳴上悠」であることを奪い(忘れさせ)、そこから1つずつ絆の記憶も落としていく そうすると町にも影響が出て… 最終的に番長くんが黄泉行きになると、八十稲羽も道連れになる。デス=ニュクスが世界を終わらせようとしたみたいに

その影響が出て、ニュクスが近づいたのと同じ現象として霧が出たり、記憶を奪われた人々が無気力性になったりした(戦車アルカナが消えた千枝ちゃんがなったのは無気力性です)

で、陽介に呼ばれて自分は鳴上悠だ!っていう記憶を取り戻した番長くんは、陽介を連れて黄泉国の入り口(ちょうど神話でイザナギが黄泉国に行ったイザナミに会った辺りの場所 というイメージ)から黄泉平坂に戻る最中、ナミ様に追いつかれてアカン詰んだってなるんですけど、そこでイザナギが助けてくれるわけなんですね

というかその前に、一番最後に呪文(女教皇と魔術師の中途で止まっちゃうやつ)を唱えてたのはイザナミじゃなくてイザナギなんですけど、ちゃんと伝えられているのか…?

伝わってない前提で解説すると、イザナミはあの時、陽介に見つかって陽介と喋ってたので番長くんのとこにはいないんですよね でももう番長くんの中にいるイザナギは妻と共に黄泉へと下る覚悟が決まっているので、最後のアルカナを自ら払い落そうとした。それを陽介が横やり入れて邪魔した、落とそうとしたアルカナの持ち主が自ら邪魔に入ったことで呪文は中断され、陽介が「鳴上悠」を呼んだことで悠も「自分は鳴上悠だ、イザナギじゃない」ということに気が付いて、悠からイザナギが分離してイザナミと共に去っていった という感じです 自分で解説しながら「分かる訳がねえな」と思いました すみません

 

イザナギと分離した悠

あとがきに書きましたが、この本で出したわたしの結論は「ノーマルエンドの番長くんはペルソナが使えなくなる(けど、仲間たちと仲良く幸せに暮らす)」です。

ので、UとかU2とかDとかの世界線には繋がりません 八十稲羽と番長くんが健やかであれば良し の精神です

マガレさんがご挨拶に来たのは、ベルベットルームをもう利用することがなくなるのでお別れの挨拶のつもりで来てくれたんですね マガレさんは、キタローくんの死後ふらりと旅立ってしまった妹のざべっさんの気持ちが(P4ゲーム開始時点では)理解できなくて、でも番長くんと1年を過ごすうちに、お客人の運命に引き込まれていったざべっさんの気持ちがようやく分かった という感じで書いたつもりです

あの後番長くんと陽介は付き合います ていうか元々両片想いでした 陽介の「行くなよ、好きなんだ」事件が衝撃的だったので、本当は付き合ってる二人の話にしようと考えていたのを、無理矢理両片想いに修正しました

なのでラストの陽介の告白を、例の没台詞と同じにしました 行くなよ好きなんだのことをずっと考えていたい……

 

⑦宝珠

トゥルーエンドルートで、イザナミとの対決前にベルベットルームでイゴールから渡される宝珠を、今回マガレさんから陽介に(どこにも行きつかない電車の中で)渡しています。

P4のゲーム内では、基本的にベルベットルームは中立というか、番長くんにペルソナ合体とかの協力はしてくれるけど、直接運命に干渉することはしない…番長くんが選んだ選択を見守るだけ、というスタンスだったと思うんですが(迷い込んできたクマと引き合わせてくれたことはあったかもしれないけど)、あの『宝珠をイゴールから番長くんに渡す』というアクションは、イザナミさんの想定を超えた干渉だったんじゃないかな、と思っていて… あの宝珠がないと、イザナミの正体(第二形態)は暴かれなった訳なので

そもそもP4の話の中で、イザナミとベルベットルームの力関係ってよく分かってないんですよね…これについて考えてくと頭がこんがらがっていくんですけれども そもそもイザナミのことがよく分かっていないんだわたしは イザナミは本当に伊邪那美命なのか…?集合的無意識に存在している「人が思う神」が顕現した姿なのか…?それとも、クマが自分をクマだと(愛されたいがゆえに)認識しクマのガワを構成したように、自分をイザナミだと認識しているただのシャドウ的存在なのか…??

わたしは解釈は一つではないと思っていて、この本のイザナミは本物の神的存在ということになっていますけれども、別の本だとそうじゃない解釈で書いてることもあるかもしれませんので、今回はこうなんやなでお考えください 

話を戻すと今回はイゴールが番長くんに宝珠を渡さなかった代わりに、マガレさんが陽介に宝珠を渡しました 宝珠の効能よく分かってないけど、多分イザナミの化けの皮を剥ぐ(真実を暴く)ためのものだろうという気持ちで書いています

 

 ⑧神話関連

日本神話の解釈については完全にあの話に合わせた形で今回考えたものなので、あまり詳しい講釈はできませんしにわかですみません、お恥ずかしい限りです ウィキペディアで調べたくらいなので全然そのー、専門的な知識は全然ありません(あ、ウィキペディアには先日寄付しました)

でも前から思ってたんですけど、オルフェウスの冥界入りの話とイザナギの黄泉下りの話って似てますよね なんでこの二つの話こんなにも共通点が多いんだろう??やっぱ「死んだ者はもう何をしても取り戻せない」ということが人類共通の教訓だからだろうか…

「死んだ妻を死の世界に取り戻しに行った夫が、我慢できずに妻の姿を見てしまったことで妻を生の世界に戻すことはできず、自分だけ帰ってくる」というストーリーまんま同じ 不思議…

っていうのずっと昔から思ってたので、ペルソナ3と4でそれぞれのモチーフが使われてることを知ったとき「これ似てて不思議ーと思ったのわたしだけじゃなかったんだ!」ってちょっと嬉しかったんですよ やっぱ似てるよね

で新刊に話戻すと、菜々子の夢の話はどちらかというとギリシャ神話のオルフェウスの方に似ている気がしています それはわりとわたしの意識が、この話の共通点の多さに引っ張られているから…(言い訳)

隣にいる、繋いでいる手が本当に陽介か?と疑わしく思って確かめようとするところも、どちらかといえばギリシャ神話の方に似ていますね

とにかく死の世界においては、相手の顔を見ちゃいけないのは鉄板らしい

ペルソナ3の世界は「ニュクスは死であり、主人公の身体の半分は死だった」→「死と共に生きる、死を想うこと(メメントモリ)」というテーマになっていて、ペルソナ4は「真実を見極める」ことがメインテーマだけど、この2作は対になっているので、ペルソナ3でいう「すぐ側にある死」という存在が、ペルソナ4だと「主人公たちを俯瞰し続けているイザナミ」が死の世界とのリンクだったのではないかな…と でもキタローくんが死を身体に飼い続けた存在だとしたら、番長くんは生の化身を宿した主人公なんだな…エモ……

 

いろいろ書いたけどまだ分かんないとこあったらそっと訊いてください 怖い言い方をせずできるだけ優しく訊いていただけたら有難いです 回答できるようならいくらでも答えますので っていうかほんと、本だけで読み取れない部分が多数あってすみませんでした 気合い入れて書いたんですがあまりにも背伸びしすぎのテーマだったかもしれません 今後も精進します

ここまでまとまらない文章を(そしてまとまらない本を)お読みくださりありがとうございました!

新刊チラシの裏『風吹けば恋』

アナコン12お疲れ様でした!!

皆さん、小説読むのって時間かかりますよね!速読できたとしても、恐らくそれなりに時間があるときじゃないと読み始めませんよね。

自分もそうだから分かります。イベントで買った小説本、読むのはわりと時間おいてからだってこと。もちろんすぐ読むって方もいるでしょうけれども、まあまだ読んでない人にとっては新刊の裏話なんてまず見に行く訳ないものなので(読んだ人にも需要がある訳ではない)、これはもう完全なわたしの独り言として、インターネットの波の中でもかなり脇の方に置いとかせてください。

 

今回の新刊は陽介くんの一人称で、内容的にはかなり説明不要な感じの、番長くんの告白から始まる主花でした。うわあいつも通り!だし、名門カプである主花の歴史を紐解けばおそらく今までに50000冊は出てるやつ!!

だけどいいんですよ わたしのサビなんすよこれはもう サビいっぱいあるなお前!あれだろ、攻めオナもサビだろ はいそうです(一人芝居)もうサビばっかりで飽きたよ!って人もいるだろうけど、好きなんだからそっとしておいてくれ…

 

なお今回のキモとして「陽介が最終的に落ちてくると見越して、掌の上で転がしていた番長くん」ではない、というか、にはしたくない!と思って書いてました。うちの番長くんはいつも少しヘタレているので、そんな計算ずくで陽介くんを手に入れるような器用さはないんですよ まあ「器用さ」ってステはぺごくんにはあるけど番長くんにはないので… いいじゃないですか…

 

陽介の一人称は本当に書きやすいし、書いてて楽しかったです!口語体と地の文がところどころ混ざり合うのも陽介くんぽくていいと勝手に思っています。ラノベっぽいけどね。ていうかほとんどなりきりチャットだよ なりチャたーのしーー

こないだの両片想い本(番長くん・陽介くん視点切り替わり)書いたとき気づいたけど、意外と陽介くん視点のえろは書きやすい…なぜなら、難しい言葉を遣わずに済むからだ 「そのささやかな蕾が~」とか凝った言い回しで(んなことは書きゃしないが)書かずとも、「まさかこいつのアレが俺のケツに!ぎゃー」なんて調子でうわーすげーひえーって書いてたらえろシーンが終わる。とても楽しい。

欠点があるとしたら、ぬけやしないということですね…いや、普段のわたしの書くもんでもろくにぬけへんけど、(ぬけたら、匿名のマシュマロで「ぬいたよ!」って教えてね!などとろくでもない要求をしたい)それにしてもお色気シーンに色気がないというのはどうか いやでもそれこそガッカリ王子の面目躍如だ!ということにしてください

 

いつものことなんですけど、なんかもうどんどん準備とか雑になってる…

わたしはなれそめが好きなので、本で書いてる主花ちゃんはたいてい初夜なんですけど、ちゃんと初夜させようとしたら本当はめちゃくちゃ大変じゃないですか まず腸洗浄から始まり、何日も解して準備して、みたいな。それが、うちの主花ときたら「付き合ってください」「はい」→すぐセッ!っていきたいわけですよ。ていうかわたしが、なんか最近セッを最後までやんないと話が終わらない気がしててですね、そのため、ずっと準備してきたわけでもないのにスムースイン!ってなる

もうBLはファンタジーですから!を合言葉に、気にしすぎるのをやめていたんだけれども、他の方がちゃんと理にかなったセッの準備をされてる作品を拝読するたびに、わたしは陽介くんに無理を強いすぎているのではないか…?と不安になることもあるんですよ 今回など、風呂も入ってないのに番長くんがオーラルでアレをソレしたので、なんか…衛生観念とか…どこいったってかんじで ほんと いくらファンタジーとはいえさすがに我に返るんじゃ?という気もしたが、陽介くんはあれだ いつでも全身柑橘系のさわやかな香りがするから…オレンジの妖精だから彼は YURUSITE

mrkbさんボイスで喘ぎ声脳内再生できるのが理想なので陽介くんらしさはできるだけ意識しています 宗教上の理由でBLCD聴かないわたしですが

 

あとねあとがきに書いた蛇足なんですけど、陽介くんのマジョリティ思考について、昨日若干ツイートしちゃった。これ長いことわたしが勝手に溜め込んでたやつなんですけど、わたしは陽介くんが自分と自分の周りは全員異性愛者だと信じ切っていて、マイノリティに無理解な発言をしたり、疑惑の目を完二に向け「俺いま貞操の危機じゃ?」なんて無配慮な発言をしたり、「するところが好き」という無法者なんですよ すみません

そんな陽介くんのダメなとこもダメと分かってるけどひっくるめて好き!なんじゃなくて、「陽介くんのそういうとこが好き!」なので、罪深いのは陽介くんよりむしろわたしのほうです I KNOW

これを読んでる人はぺよんをクリアしてると断定して話進めますけど(クリアしてない人は今すぐ閉じてくれ)、たとえば足立さんが殺人犯だから好き!みたいな感じで、同性愛・マイノリティに対する大いなる無配慮と無知で構成されている花村陽介がわたしは好きなんですよ…花村陽介くんの好きなところ、たくさんあるけど、その中でもたぶん何故この子にこんなにもハマったのかというと、一番そこが要因としてでかいんですよ

俺ほもじゃねーし!俺女の子好きだし!って声高に言えば言うほど、BLにしたくなるんですよ…俺ノーマルです!って言う一方で番長くんには相棒相棒ってものすごい懐いてくる、このギャップ…そこが好きなんですよ はーーBLが見たい!

「この子自分の相棒が自分に恋愛感情抱いたら(≒自分の相棒への感情が恋愛感情だと気づいたら)どんな顔するんだろう」が最初に抱いた劣情だったんですよ 今も抱き続けてるんですけどねその劣情を わたしが好きなBLってそういうのなんですよ だから二次創作が好き…だって二次の子たちは 原作ではBLじゃないから… だからBLさせ甲斐がある……

わたしのような性癖は滅亡した方が世界のためではある…わかってる 世界はもっとマイノリティに寛容であるべきであり、すべてのマイノリティカップルは大手を振ってパートナー宣言していいし、同性を好きになったからって悩まなくたっていい わかってる 分かってるけど、わたしはそういうのが好きなんや……俺はノーマルだ!って主張する子を(彼の言う)アブノーマルにするのがわたしの性癖なんや……鬱

そんな時代錯誤も甚だしい、意識の低い性癖をめちゃめちゃに詰めたのが今回の本になります。わたしはだから、すごい書いてて楽しかったし、こーーーいうのが好きじゃーーーいって気持ちをぶちまけることができて、性癖に正直ですごく気に入った本になった。

けど、出しきったあとイベント直前になって、にわかにむちゃくちゃ不安になってきました。わたしは自分のこの性癖にあんまり自信がないので、人前に出して誰かの心を傷つけてしまうんじゃないか、古臭い考え方だと思われるんじゃないかとか、そんな不安が。わたしは陽介くんをこういう子だと思ってるんですよ。かなり自分の思う陽介くんに近くできたと思うんですよ。だからこそ、届くかなって不安…

なんかモブレとかだといっそ開き直れるんですけどね。駄目な人は絶対受け付けないやつだし、もう無理な人は最初から避けられるやつなんでモブものは。けど今回はそういう特殊性癖なやつじゃないだけに、わたしの性癖と合わない人には苦痛なんじゃないかとか……もういいだろ!出しちまったもんは!!あきらめろ!!

まあ出したあと不安になるのはいつものことなんですけどね…

 

あ、あと今回執筆環境がいつもとかなり違って、家以外のいろんな場所で書いたんですよ。喫茶店とか、友達の家とか。すごい楽しかったです。

今までわたしは、家以外の場所であまり書けないし、そもそも人のいる気配がある場所では書けないと思ってたんですけどね。友達と原稿会やってみたら、意外とっていうかめちゃめちゃはかどって、びっくりしたんですよ。最初の部分(序文から、陽介が番長くんの告白にOKを出すまで)をその原稿会で1時間半くらいの間に書きました。すげえサックリ書けて、何度か手直しはしたけど大幅な修正もなくて、びっくりした。こんなに書けるもん!?って。だからこれからもどんどん原稿会をやっていきたい。誰かつきあってください。(さぎょいぷだと会話に加わっちゃってダメそうな気はするが)

たださすがに濡れ場は、今のところ一人で集中して書いたほうがいいのかなって気はする。無意識にニヤニヤしてたりしてたら恥ずかしいしなー

 

あとはなんかあるかな…たぶんそんなところかな…相変わらず誰得だなこの文…

気に入ってるシーンは、陽介くんがご飯を作ってくれたお母さんに今まで塩対応してたことを反省する場面です 

あ!それと、普段酒好きで甘いものあまり食べないわたしが、この本ではなんだか甘いものについて妙に描写する場面が多くて、すごい頑張りました 美味しそうに書けてたらいいけどどうだろうか 番長くんの手作りチョコケーキ(既に名前を失念した)など、味を描写できていないが

高級チョコの概念がよく分かってなく、ジュネス(レベルのショッピングモール)で売ってるチョコのクオリティを漠然と想像で書いたが、それ全然高級とは言えないから!って思われたらすみません ジュネスだとさすがに伊勢丹で扱ってるチョコみたいなのは売ってないだろうけども… どうなんだろうね…

そう。今回の本のラストシーンは作中時間で2月16日(バレンタインの2日後、P4Gのラスト2/15朝の翌日)なんですけど、ちょうどその日付が新刊出すイベント当日の日付と一致してたのは、偶然ですけどなんかいい感じの偶然でした!いえい

 

以上となります こんな駄文も含め、新刊をお読みくださりありがとうございました!!次も頑張ります!!

次はなんにしようかなあ陽介くんの片想いから始まる主花も書きたいし、主花プチもぺよんプチもあるから、なんかこう 盛り上げてえなあ~!って気持ちだけはあるんだけど。陽介真犯人本とか不穏なやつはいつか出したいけど、さすがに祭りにはふさわしくない気もする…

あとぺご時空のときにシャドワは何してたのか妄想も書きたい!って思ってるんですよ ぜんぜんまとまってないんですけどね

とりあえずそんなかんじで!